本章は、果てしない暗闇の空間で行われる、マネジメントを巡る根源的対話のプロローグである。
主人公の観人(かんと)は、暗闇で彼の意識が生み出した女性アリスと出会う。アリスは紀元前4世紀のアテネに住む哲学者の卵であり、時間と空間を超越し、世界のすべてを知る存在として描かれる。
彼女は、観人の問いをともに探求することを申し出、その対話に友人の靴職人テレスも呼ぶことを提案する。
そして、そこに、すべてを聞き、すべてを見通す存在である暗闇の住人、キツネも加わり、マネジメントの探求の旅が始まる。
果てしなく広がる漆黒の闇が、すべてを呑み込み、私を包み込んでいく。
私の名前は観人(かんと)。暗闇に向かってひとり、無言の問いを投げかけている。
「世界はなぜ分断されたのか」
「なぜ富は偏り、格差は拡大するのか」
「企業はなぜ不正を繰り返すのか」
「人はなぜ働くのか」
「自由とは何か、正義とは何か」
「そもそも人はなぜ生きるのか」
問いは、音もなく闇の中に吸い込まれ、私は、ただ答えを求め続ける。
すると、微かな空気の振動が、何者かの存在を私の皮膚に伝えてくる。
ちょっと待て。何か、かすかな気配を感じるぞ。
錯覚か。いや、これは誰かの息遣いだ。間違いない。誰かがいる。
「そこにいるのは誰だ? 何をしている?」
暗闇の先の、見えない何者かに向かって私は呼びかける。
返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
「私は、あなたの中に存在するものです」
透き通った高音の、美しい女性の声だ。
不意を突かれた私は、さらに問いかける。
「私の中に存在する? 君は人間か? それとも、人間以外の何かなのか?」
「人間です。ただし、肉体はありません」
女性の声は続く。
「あなたがいなければ、私も存在できません」
「つまり、君は、私の意識から生まれたものということ?」
「そうです。あなたと対話をするために、ここにやってきました」
「すぐには飲み込みにくい話だが、まあよしとしよう。なぜ君は、私と話すために、わざわざここに来てくれたんだい?」
「あなたは暗闇の中で答えを探している。その答えを探すために、何かお手伝いができればと思ったからです」
「私は、ここでは、ずっと一人で答えを探すしかないと思っていたんだ」
「大丈夫です。私も一緒に考えます」
「ありがとう。それは願ってもないことだよ」
少し気持ちが軽くなり、私は言った。
「自己紹介をしよう。私の名前は観人(かんと)という。二十一世紀の日本という国からやってきた」
「観人さん。素敵な名前ですね。暗闇で答えを探す人にピッタリです」
「ありがとう。君の名前は?」
「私はアリス。紀元前四世紀のアテネから来ました。哲学を学び、良き社会について考えることを生業としています。ときどきこの暗闇に来て、人間と世界のことを考えています」
「紀元前四世紀のアテネだって? ずいぶん遠くから来たんだね」
「私は、観人さんとは違う場所、違う時代に生きています。けれど、二十一世紀の世界のこともよく知っています。この暗闇に来ると、世界のすべてを知ることができるのです」
「それは素晴らしいことだけど、きっとつらいこともあるだろうね」
「そうです。すべてを知ることは、楽しいことではありません。過去の悲惨な出来事や、未来に待ち受ける試練が見えたら、誰しも胸が押しつぶされそうになるでしょう。それでも私は、この暗闇に来て、世界を見、人間について考えます。私は人間の力を信じています。そして、人間に希望を失っていないのです」
「ありがとう、アリス。私は、その気持ちを失いかけていた。私には、答えを見つけるべき問いがたくさんある」
頭の中の、浮かんでは消える記憶を手繰りながら、私は続ける。
「私は長く、会社員として働いてきた。ビジネスの世界を、人並みか、それより少しは上手に渡ってきたかもしれない。でも、ずっと何か違和感を引きずってきた」
アリスが柔らかい声で問いかける。
「違和感、ですか?」
「そうだ。強くなること、競争すること、優位に立つこと、成長すること、効率を高めること、利益を増やすこと、そして株価を上げること。私がやってきたのは、そういうことだった」
「それは、何のために?」
不思議そうにアリスが尋ねる。
「経済を成長させて、豊かになり続けるためだよ」
「その目的自体は、決して悪いことではないと思いますが」
「そうだね。たしかに経済は成長した。競争で新たな商品が生まれ、生活は便利になった。しかし、同時に、富はますます偏り、格差は広がり、自然は破壊され、不正が繰り返されている。それは、本来の豊かさとは相いれないものだ」
少し間を置いて、アリスが応える。
「私が生きている二千五百年前の世界にも、同じような問題はあります。でも、二十一世紀のそれは、もっと複雑で、もっと大規模で、そしておそらく、もっと苛烈なのでしょうね」
しばらく考えてから、ふと思いついたようにアリスが言った。
「もう一人、私の友人をここに連れてきましょう。名前はテレスと言います。アテネに住む靴職人で、生きることや社会のあり方について、いつも私たちは語り合っています。彼は、人間への関心を持ち、誰かの役に立つことに喜びを感じる人です。そして、理想を現実に照らして考える力も持っています。彼が加われば、私たちの対話は、現実との接点がより広く、深くなると思います」
「ありがたい提案だ。哲学者、職人、そしてビジネスマン。どんな対話が生まれるか、楽しみだよ」
「わかりました。では、さっそく今からアテネに戻って誘ってみます。きっと興味を持って駆けつけてくれると思います」
そう言ってアリスは、暗闇に溶け込むように姿を消した。
再び、深く静かな闇が私を包む。
「さて、また一人になってしまったな」
すると、空気がわずかに震え、耳元で囁くような声が聞こえた。
「ちょっと、よろしいですか?」
老人とも若者とも、女性とも男性ともつかない、不思議な響きだ。その声は、どんな遠くにいても鮮明に聞こえるようだった。
「あなたは誰だ?」
私の問いかけに、声が応える。
「私はキツネです。この暗闇に棲んでいます。私は、ここに持ち込まれた人間の苦悩や歓喜、憎しみの感情、交わされるすべての言葉が聞こえます。お二人の会話を聞いて、とても興味を持ちました」
姿は見えない。しかし、その声は、すぐ近くで語りかけているように、はっきり聞こえる。
そこへ、姿を消したはずのアリスの声が届いた。
「不思議なキツネさん。もちろん大歓迎です。ぜひ、私たちの対話に加わってください。観人さん、構いませんよね?」
アリスの声は軽快だった。
「構わない。というか、断っても、どうせ全部聞こえてしまうんだよね?」
私は、事態がのみ込めないまま、苦笑して答えた。
キツネが言う。
「はい、すべて聞こえます。そして、会話からこぼれ落ちた大事なことや、人間には見えないことも、私には見えます。でも、出しゃばることはしませんので、ご心配には及びません」

得体は知れないが、どうやら悪いやつではなさそうだ。
「わかった。暗闇のキツネさん。すべてが見え、すべてが聞こえるのなら、あなたの知恵は、きっと私たちの対話の大きな助けになるだろう」
私は、少し興奮していた。
「ありがとうございます。お役に立てるなら、嬉しいです」
キツネの声も、気のせいか、やや弾んでいるようだ。
やがて声は消え、私は再び、静寂に包まれた。ただ、先ほどまでとは違う、かすかな光の気配が感じられる。
アリスとテレスの到着を待ちながら、私はもう一度、胸の奥の違和感の正体を探ろうとしていた。
今ごろアリスは、二千五百年前のアテネに戻り、自宅のベッドで深い眠りについているに違いない。