第一章その一~その四 概要
第一章は、主人公である観人が自身の違和感の根源を探る哲学対話の始まりである。アリスとテレスの問いかけに、観人は自己の体験と世界の出来事をを語り始める。
極端な富の偏在、拡大する格差、環境破壊、金融経済の膨張、不正を繰り返す企業、働く人々の孤立。観人は、こうした現代社会の深刻な歪みの原因が、人々が「市場という巨大な檻」に閉じ込められてしまったことにあると感じている。
その契機となったのが、1989年のベルリンの壁崩壊である。東西冷戦の終結は「自由と民主主義の勝利」であり、闘争を繰り返してきた人類の『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ)であると主張された。当時の世界は大きな高揚感に包まれていたが、キツネはそれが「分断の始まり」だったと指摘する。「市場に行っても自由は売っていない。自由は買うものではなく、人間が協力して作り出すものだ」とキツネは言う。
ビジネスマン観人のキャリアは、世界が市場化していく40年と重なり合う。
中国の改革開放の流れに乗った1990年代の香港は、世界中から人・物・金が流れ込んでいた。活況を呈する株式市場、不動産や人件費の高騰。しかし、97年の返還直後に発生したアジア通貨危機によって、過熱していた市場はいっきに底抜けする。現地で縫製工場の再建に取り組んでいた観人は、市況の激変に飲み込まれ、工場を閉鎖して帰国する。
資本主義の実験場香港で、金融化が加速する経済の脅威を実感した観人は、労働より投資で稼ぐ時代の往来を確信し、帰国後本社で投資専門組織を立ち上げる。そこに発生したのが2001年の9.11同時多発テロだった。深夜のオフィスで一人、ウォール街の超高層ビルが崩落する様子をテレビで観た観人は、世界の金融経済の象徴が激しい憎悪の対象として破壊されたことに衝撃を受ける。
順調に滑り出した観人の投資事業は、功を焦って失敗を重ね、組織は解散となる。失意の中、観人は現地法人の代表としてイタリアに赴任するが、全社的な組織改革によって事業の指揮権を失い、「事業をしない経営者」となる。そこを襲った2008年のリーマンショック。巨大な金融バブルが破裂し、世界はパニックに陥ったが、観人のイタリア現地法人はチームの力でその危機を乗り越える。ある日、休暇で訪れたイタリアの田舎の小さな宿で、観人は手作りのコーヒーを勧める老人に人間の労働の意味を感じ取る。
これらの体験を通じて観人は、それまでの自分の失敗の背後に自己への過信と傲慢さがあったことに気づく。そして、チーム力を引き出すマネジメントという仕事のおもしろさを知る。
イタリアから帰国後、観人はある中小企業に転職する。そこで見たのは「経営をしない事業家」の傲慢さと、権力者に怯えて萎縮する社員の姿だった。
こうして観人の違和感の根底には「信頼の喪失」があることが明らかになり、対話は「会社とは何か」という次の問いへと続いていく。
テレスの登場
果てしなく深い闇に包まれて、私は彼らが現れるのをじっと待っている。
時は止まり、何も動かず、何も響かない。過去も未来も、ただの観念に変わり、すべてが一瞬の中に溶け合っている。
すると、静寂を破るように、あの明るく透き通った声が空気を震わせる。私は、大きくひとつ息を吸い込む。
アリス:「観人さん。約束どおり、友人のテレスを連れてきました。アテネに戻って、あなたのことを『二十一世紀の日本に暮らし、市場化する世界に違和感を抱いている人』だと話したら、とても興味を持ってくれました」
テレス:「初めまして、観人さん。私はテレスです。古代アテネに暮らし、靴職人として働いています」
テレスはゆっくりと近づき、穏やかに語りかける。
テレス:「アリスから、あなたのことを伺いました。私は物をつくる職人で、人はどう働き、どう生きるべきかを日々考えています。アテネの職人は、手仕事に誇りを持って生きています。でも、二十一世紀の世界では、それが当たり前ではないとも聞いています。観人さんとのお話に、ぜひご一緒させてください」
観人:「「ありがとう、テレス。君に会えるのを楽しみにしていた。君は、人間に関心を持ち、冷静に、そして実際的に考える人だそうだね。それはきっと、職人という仕事の性質とも深く関わっているのだろうね」
静かに微笑みながら、テレスが答える。
テレス:「そうかもしれません。人間が手で触れることで、物質に生命を吹き込む。それが、私たち職人の仕事ですから」
観人:「とても意義深い仕事だね。私は、四十年以上、ビジネスの世界で働いてきたが、やってきたことはその逆だった。成長のために世界を消費し続ける。それが私の仕事だった。その意味をいまだに説明できずにいる」
アリスが頷き、会話を引き継ぐ。
アリス:「さあ、観人さん。テレスも加わってくれたので、あなたの感じている違和感について、三人で考えていきましょう。迷子になっても、きっとテレスが、冷静に、正しい場所へと導いてくれるはずです」
私は、心が揺らぐまま、じっと遠くを見つめている。アリスとテレスも、私の気持ちが伝わっているようだ。すぐそばでは、あのキツネがじっと私たちを見つめている。これから始まる対話の行方を見届けようとしているのだろう。
観人:「さて、では、始めようか。 最初の問いは、『世界はなぜ市場化したのか』だ。 二十一世紀の人間は、市場という巨大な檻の中で暮らしている。 そして、市場の物語が人々の思考と行動を支配しているんだ」
哲学対話の始まり
私は、重たい気分を引きずりながら、どこから語るべきかを考えていた。
観人:「二十一世紀の世界では、とてつもない格差が広がり、競争の勝者と敗者の間に深い分断が生まれている。勝者はおごり、敗者は理不尽な現実に怒りを募らせる。実体のない金融経済が肥大し、企業は不正に手を染め、働く人々は孤独と不安のなかで心を病んでいる。そして、自然さえも容赦なく搾取され、破壊され続けている」
テレス:「もう少し具体的に、お話しいただけますか?」
観人:「例を挙げよう。世界の富の約四割は、わずか一パーセントの富裕層によって所有されている。一方、下位五〇パーセントの人々が持つ資産は、すべて合わせても、全体の二パーセントにも満たないんだ」
テレス:「信じられません。驚くべき数字ですね」
観人:「一人で二十兆円を超える資産を持つ富豪がいる一方で、一日三百円以下で暮らす極度の貧困層が、世界には七億人もいる。最も豊かな国とされるアメリカでは、大企業のトップが、一般の従業員の三百倍もの報酬を受け取っている」
アリス:「それを公正だと思う人は、どれくらいいるのでしょう?」
観人:「もう少し続けよう。いま話したのは格差のことだが、自然環境や資源の浪費も深刻だ。地球では毎年、スイスやオランダに匹敵する広さの森林が失われ、数百万種もの生物が絶滅の危機にさらされている。さらに、生産された食糧の四割、衣料品の七割が、使われぬまま廃棄されている」
テレス:「想像を超える規模ですね…」
観人:「それだけではない。株式や金融商品の市場規模は、実体経済の四倍にまで膨れ上がっている。いまや、働いてモノやサービスを生み出すよりも、ただお金を持っているほうが、はるかに豊かになれる。そんな世界が、当たり前として受け入れられているんだ」
アリス:「働かない方が豊かになるとは、いったいどういう世界なのでしょう。私には理解できません」
観人:「それをおかしいと感じない人が、たくさんいることが問題なんだ。そして、繰り返される企業の不正や不祥事、ハラスメント。それらは、抑圧に耐えきれなくなった人間の、歪んだ反応だ。社会の根の深いところで、何かが壊れはじめている」
私は続ける。
観人:「経営者は株価と数字に追われ、中間管理職は自由を奪われ、労働は外注可能な商品となり、つながりを断たれた人々の心は蝕まれていく。私の国でも、上場企業のおよそ三社に一社が、過去三年のあいだに、何らかの不正や不祥事を経験しているという」
二人は、じっと私を見つめている。
観人:「巨大化した資本による買収合戦、膨れ上がる金融資産、仮想空間に渦巻く偽情報と、非難の応酬…。世界最強の国、アメリカでさえ、勝者と敗者が互いを罵り、軽蔑し合っている。健康も、教育も、もはやすべてがお金次第だ。こんな世界が、長く続くとはどうしても思えない」
アリスが静かに問いかける。
アリス:「それは、誰かが意図してそうしたのですか? それとも、気がついた時には、もうそうなっていたのですか?」
少し考えて、私は答えた。
観人:「わからない。でも、私も、そういう社会の形成に加担してきた一人であることは、間違いない。かつては私も、競争がすべてだと信じていた。ビジネスを拡大し、売上を伸ばし、利益を増やす。それが会社の成長になり、自分の評価になる。それが正しい働き方だと思っていた」
私は続ける。
観人:「でも、いつの頃からか、何かが違う、と感じ始めた。私が成し遂げたことで、本当に誰かが幸せになったのか? 効率を高め、お金を稼ぐことで、人々の暮らしは本当に豊かになったのか? 競争に勝つことだけが、目的になっていなかったか?…。気がつけば私は、利益のために人を追い詰め、資源を浪費し、そして、働く者たちの心をすり減らす側に立っていた」
さらに、私は言葉を続けた。
観人:「気がついたときには、多くのものが失われていた。市場の論理に縛られ、疑問を抱く余裕もないまま、私はただ競争を繰り返していた。仲間たちは次第に疲れ果て、一人、また一人と職場を去っていった。それでも私は、立ち止まることができなかった。でも、これは、私だけの話ではない。世界中の何億、何十億という人びとが、同じように生き、勝者と敗者を振り分ける日々を繰り返してきた。その積み重ねが、いまのこの世界を、つくりあげてしまったんだ」
●観人が指摘する「市場化の歪み」
極端な格差: 上位1%が富の約4割を独占、下位50%の富は2%未満。CEOの報酬は一般従業員の300倍を超える。
金融の肥大化: 金融市場の規模は実体経済の4倍。「働く」よりも「お金を持っていること」が有利な社会。
環境破壊と浪費: 森林消失や生物の絶滅。生産された食糧の4割、衣料品の7割が廃棄されている。
不正の蔓延: 企業は利益と数字に追われ、3社に1社が不正や不祥事を経験(日本の上場企業の例)。
精神の疲弊: 労働が商品化され、人々が孤立。社内にはびこるハラスメントや足の引っ張り合い。
社会の分断: 勝者と敗者が互いを非難。教育や健康もお金次第。

テレス:「それが、観人さんの言う『社会の市場化』の意味なのですね?」
観人:「そうだ。市場はもともと、モノやお金の交換を通じて、人々をつなぎ、暮らしを豊かにするための仕組みだったはずなんだ」
テレス:「そのはずなのに、それがいつの間にか市場が、人をつなぐどころか、競争を煽り、勝者と敗者を分断し、社会と自然を傷つける道具になってしまった、というわけですね?」
そこで、しばし黙って考えていたアリスが、口を開く。
アリス:「アテネには、『アゴラ』という公共の広場があります。アゴラは単なる市場ではなく、政治、経済、倫理、哲学など、あらゆる人間の営みが交差する、社会の中心です。そこで、人々は、『言葉』と『貨幣』という二つの道具を用いて、交流し、議論し、生きる知恵を育んでいます。社会の繁栄は、本来、その言葉と貨幣の両方から生まれるもののはずです」
観人:「二十一世紀の市場は、モノやお金しか交換しない」
アリス:「古代ローマにも、『フォルム』という広場があります。フォルムは、やがて、討論や議論の場としての『フォーラム』と、物資を交換する場としての『マーケット』に分かれていくのですが、二十一世紀には、マーケットが社会をすっかり覆いつくしてしまったのですね」
テレスが、少し怪訝な表情で、観人に問いかける。
テレス:「でも観人さん。二十一世紀の社会は、私たちのアテネよりもはるかに豊かですよね。食べ物も、物資も、サービスも、あらゆるものが揃っている。それほどまでに豊かになったのに、なぜ社会が分断してしまうのでしょうか?」
観人:「それは、私がいま最も知りたいことの一つだ。人間社会を豊かにするはずだった市場が、なぜ分断や破壊を生んでしまうのか…」
三人のあいだに、しばし沈黙が流れた。
そのとき、キツネが、さりげなく言葉を差しはさんだ。
キツネ:「その答えは、そう難しくありません。人間は、絶対的な豊かさよりも、公正さにこだわる生き物だからです。どれほど物質的に豊かになっても、自分が不当に扱われていると感じるかぎり、人は幸せになれません。そして、不正を働く者には、強い憤りを覚えるのです」
アリス:「なるほど。問題なのは足りないことではなく、信頼の喪失なのですね?」
キツネ:「そうです」
テレス:「たしかに、人間の尊厳を奪うのは、貧しさそのものではなく、人々の無関心や社会の不公正さだ」
テレスが続ける。
テレス:「格差や不平等は民衆の不満を招き、それが限度を超えると革命や戦争が起きる。それは、歴史が何度も証明してきたことです。でも、市場化した社会で起きで起きている不平等の原因が、果たして市場そのものにあるのか、それとも人間の間違った市場の使い方にあるのか。それはどちらなのでしょう?」
観人:「なるほど。たしかに原因がわからなければ、正しく問題に向き合うことはできないね」
テレス:「そのためにはいろいろな事実を見ていく必要があります。事実こそが真実へ至る道ですから」
観人:「歴史を振り返るということかな?」
テレス:「そうです。観人さんが働いてきた時代に、世界にどんな出来事があったのか。観人さんはその何に違和感を抱いたのか。それを丁寧にたどっていきましょう」
アリス:「思い出したくないこともあるでしょう。でも、歴史に向き合うのはとても大切なことです」
観人:「世界に何があったのか。私が何を見て、何を感じてきたのか…」
二人に背中を押され、私は心の奥底に沈殿する記憶をゆっくりと辿りはじめた。市場が人間と社会を包み込んだこの四十年の出来事を。
(第一章続く)
<注釈>
1.フランスの経済学者トマ・ピケティらが設立した「世界不平等研究所(WIL)」の報告によると、2021年時点で世界の上位1%の富裕層は全個人資産の37.8%を保有し、下位50%の人々が保有する資産は全体のわずか2%にとどまっている。また、1990年代半ば以降、増加した資産の38%を上位1%が獲得しており、格差は拡大し続けている。
同様の報告は数々の研究機関によって行われている。たとえば、クレディ・スイスの「グローバル・ウェルス・レポート2020」では、上位1%が資産全体の43%を保有し、下位50%は1%しか保有していないとしている。
2.フォーブスの2023年のデータによると、世界長者番付の首位に立つイーロン・マスクの個人資産は、約1,800億ドル(約23.4兆円)。一方、世界銀行の2024年の報告では、1日2.15ドル未満で生活する「極度の貧困層」は約6億9,200万人にのぼり、これは世界人口のおよそ8.5%を占めている。
3.アメリカの労働市場や経済格差に関する調査・提言を行う非営利のシンクタンク経済政策研究所(EPI:Economic Policy Institute)によると、2017年時点でアメリカの大手企業CEOの報酬は、一般的な従業員の年収中央値の312倍に達している。また、企業の役員報酬データを専門に分析する調査会社Equilarの報告によれば、2023年のS&P500企業におけるCEOと従業員の報酬比も312対1であり、この格差は複数年にわたって続いているとしている。
4.国連食糧農業機関(FAO)の「Global Forest Resources Assessment 2020(世界森林資源評価2020)」によれば、2010年から2020年の間に世界の森林は年平均約470万ヘクタール(約47,000平方キロメートル)減少している。これは、植林などによる増加分を差し引いた純減であり、スイスやオランダの国土面積に匹敵する。
5.IPBES(国連主導の生物多様性に関する国際機関)の2019年報告「Global Assessment Report on Biodiversity and Ecosystem Services(生物多様性及び生態系サービスに関するグローバル評価報告書」によれば、約100万種の動植物が絶滅の危機にあり、多くは数十年以内に絶滅する可能性がある。絶滅速度は自然の100〜1,000倍に達し、主な原因は生息地の破壊や気候変動などである。
6.自然保護団体WWF(World Wide Fund for Nature)とイギリスのスーパーマーケットチェーン・テスコが2021年に発表した報告によると、世界では年間約25億トン、生産量の約40%に当たる食糧が毎年廃棄されている。これはFAOの発表数値(廃棄率33%)を大きく上回る。
7.2023年の世界の繊維生産量は1億2,400万トン(Textile Exchangeの2024年報告「Materials Market Report」)、廃棄量は世界全体で毎年約9,200万トン(Ellen MacArthur Foundationなど複数のソースの推計)であり、廃棄率は74%に及ぶ。
8.IMFの2013年レポートによれば、2011年末時点で世界の資本市場規模(株式時価総額、債券発行残高、商業銀行資産の合計)は259兆ドルに達し、これは世界のGDPの約3.7倍に相当する。2016年には世界のマネー供給量はGDPを16%上回り、金融経済が実体経済を上回る傾向は一層顕著になっている。
9.日本の上場企業全体のうち、2022年から2024年の3年間に何らかの不正(会計操作、資産の不正流用、コンプライアンス違反など)が発生したと回答した企業の割合は32%であった(大手会計法人KPMG調査)。過去10年間のデータからも、上場企業の不正・不祥事の件数は増加傾向にある(不正調査を行う第三者委員会の公開情報を発信するウェブサイト「第三者委員会ドットコム」による)。
10.日本国内でメンタルヘルス不調による休職者や退職者がいた事業所の割合は、一貫して増加傾向にあり、2020年から2022年には9.2%から13.3%へと、顕著な上昇が見られる(公益財団法人日本生産性本部が2005年から毎年実施しているアンケート調査結果に基づく)。 特に20代若手社員の「心の病」が、2017年から2019年にかけて急増している(株式会社パーソル総合研究所2024年12月調査報告書)