HOP Library #7 『分裂病と人類』(中井久夫著、2013年、東京大学出版会)

戦後日本を代表する精神科医、中井久夫。統合失調症の研究をおおきく前進させ、H.S.サリヴァンやエランべルジェ、J.ハーマンの翻訳紹介、精神病棟の改革など、精神医学の発展に多大な貢献をしたが、それにとどまらず膨大な読書量をもとに日本社会論を展開し、卓越した語学力で西洋詩の翻訳にすぐれた業績を残した。まさに戦後日本の知性というべき存在だったが、2022年8月に永眠された。中井氏の作品は今後も読み継がれるべきものだが、その中から初期の名著『分裂病と人類』を紹介したい。

本書は表題作に加え、日本人の職業倫理を考察した「執着気質の歴史的背景」、西洋精神医学の系譜を古代ギリシアにまでさかのぼった「西洋精神医学背景史」の3作からなる。初版は1982年。いずれも傑作である。

その中でも「執着気質の歴史的背景」をとりあげたい。この論文では日本人の職業倫理として知られる「勤勉」や「几帳面」の成立とその限界について語っており、現代日本の閉塞感の根源への優れた洞察となっている。

日本において勤勉な職業倫理が確立するのは、そう古いことではなく、江戸中期以降とされる。江戸時代に入り太平の世となったことで、社会に予測可能性が生まれた。明日の食糧や命を心配せずに計画を立てて生活することが可能となった。そこから識字、計算、記録の習慣が普及するとともに、工夫により生産性を上げ、自身の収益を増す可能性がうまれた。宗門改により宗教権力が世俗化したことで庶民の蓄積を収奪することがなくなり、秀吉の大家族同居の禁止は、小規模の家族運営が一般化することを促した。これらの変化から、個人の努力如何によって一家が裕福となる可能性が拓けた。これが勤勉さを生み出した近世日本の農村の背景である。

このような社会変化から登場した思想家が二宮尊徳である。彼は荒廃した農村を徹底的な調査による計画と、独自の工夫の積み上げによって次々と復興していった。ここで中井が指摘しているのは、尊徳の職業倫理は「建設の倫理」ではなく「復興の倫理」であるということである。尊徳自身が、地主であった祖父の代の没落を経験し、その再建がはじめの事業であった。再建した農村は数世代前には高い生産性をもちながら没落した地域である。彼の日記の最後にもあるように、これらの活動を「戦々兢々深淵に臨が如く、薄氷をふむが如し」の精神で実行したのが二宮尊徳という人間である。

復興の倫理にあっては、模範とすべき雛形は直近の過去にある。失ったものを「とりかえしをつけよう」とする発想ーこれを執着気質と呼んでいるーが改革の原動力となっているのである(その失敗は「とりかえしがつかない」「くやみ」となってうつ病に親和性の高い精神状態となる)。

この論文は、現代日本の精神性を考える上で多くの示唆を与えている。まさに戦後日本とは「復興の倫理」に従い成功し、失敗し、自己を見失った歴史だからである。敗戦からの復興、日本経済の再建と経済大国化、それはバブル崩壊とともに潰えたが、その後も東日本大震災からの復興、地方創生など、復興の倫理をたえず繰り返しつづけている。思うに失われた30年とは、この復興の倫理の限界を露呈しつづけてきた年月ではなかったか。復興を成功の唯一の方法ととらえ、それにすがり、失敗を続けてきたのがこの30年ではなかったろうか。

中井は復興の倫理の持つ問題を2つあげている。一つは復興がなってしまえば目標を喪失し、方向性を見失うこと。もう一つは「とりかえしがつかなくなってはいけない」という「不安」が社会を動かす動機となることである。方向性の喪失と蔓延する不安感。この二つがまさしく今の日本を覆い尽くしている感覚ではないだろうか。

これからの日本は、東アジア規模の劇的な人口減少、未曾有の超高齢化という大きな変化にさいなまれる。日本の歴史的転換点といってよく、復興の倫理がめざすべき模範は過去にはない。中井によれば、社会には様々な気質をもった人々が存在するが、時代とともに社会課題は変化し、社会課題にあった気質の者が時代に選ばれるようにして活躍するという。そうであるとするならば、戦後復興を実現した気質と、これからの未来をつくりだす人間の気質は違ったものになるだろう。それはどこかに模範を見出そうとするのではなく、自らの力で人間や社会、世界を理解し、真に生きるに値する未来を描く力を持つ者のように思われる。

(日渡)