ブルネロ・クチネリの哲学
イギリスの哲学者ホワイトヘッドは自身の教育論のなかで、知性の発達をロマンスの段階、精確化の段階、総合化の段階という3つの階梯に分けています。
新鮮な驚きと未知の探求の可能性に溢れたロマンスの段階から、知識や技術を身につけ秩序だった事実に向きあう精確化の段階をへて、ふたたびロマンティシズムに回帰する。ロマンスと現実を結びつける総合化の段階に入ることで教育の成功は得られると言います。この3つの段階説は、まさにブルネロ・クチネリの事業のあり方を物語っているように思います。
クチネリ氏の自叙伝、『人間主義的経営』は幼少期の家族との思い出からはじまります。 美しい自然、家族とのあたたかな団欒、日々の仕事と生活の充実に満ちたこの時期をクチネリ氏は「魅惑の歳月」と呼びます。だれしもが心の中にひめた幼少期の無垢な記憶。それは幸福と不幸のグラデーションに染まりつつ、その後の人生のロマンスの元型をなしていきます。
クチネリ氏の世界観が大きく変容するのは、都会での生活を経験する中でのことです。ペルージャの街のバールは、さまざまな背景を持つ人々が出会い語り合う場であり、「人生の教訓が流水のように押し寄せてきた」と言っています。その会話の中に登場してくるショウペンハウエル、ヘーゲル、キルケゴール、カントといった哲学者の名前に出会うことで、クチネリ氏は哲学への目覚めを体験します。幼少期の無垢な体験は、歴史や伝統と触れ合うことでより文化的なものへと発展するのです。
その後、カシミアセーターのブランドを立ち上げ、ビジネスでの成功を果たしていくのですが、その経緯は本の中ではほとんど触れられていません。ビジネスの方法論を確立する時期には、先ほどの3つの段階で言えば、精確化の段階にあたりますが、ここでの内容は他のビジネス書にも多くの類例を見いだすことが可能でしょう。
ブルネロ・クチネリの経営が独創的な価値をもつのは、幼少期から青年期にかけてのロマンス的段階と、ファッション事業の成功という精緻化の段階をへて、この2つがソロメオ村のプロジェクトとして総合化されるところにあります。幼少期の輝くような自然と穏やかな暮らし、青年期に哲学書を読みふけるなかで醸成されたロマンスが、ファッションブランドの構築というビジネスの実践と融合し、人文学的ともいうべき経営スタイルへと昇華していきます。
本書を通して、私たちは事業の創造におけるロマンスの重要性に気づきます。そんなもの実際のビジネスには役立たない、現実を見ろという言葉が真実かのごとく響きますが、まだ見ぬ世界への憧憬のないところに創造性はありえません。成功した多くの事業は、必ずその成功の背後に豊かなロマンスを抱えています。そして、それをより洗練させ、文化的なものとして高めていくのが教養の役割ではないでしょうか。
クチネリ氏の言う「人間主義的」という言葉の意味は、単に人々の生活に好ましいことをするということではなく、「人間らしくあるとは何か」を問いつづける姿勢にあると思います。ここでは『人間主義的経営』に登場する本を取り上げながら、ブルネロ・クチネリの経営哲学に迫ります。
(日渡)